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どうしようもなさ。

怒りは悪か


私の昔からの生きる原動力は怒りだ。

疲れるし、うんざりするし

ありきたりで子どもだと思う。

平凡な人生のはずだ。

父親を愛せない。父方の家族を愛せない。

いじめた人を許せない。

訴えても何もしなかった教師を許せない。

病気を許せない。

差別を許せない。

自分を許せない。

言葉を忘れられない。

それでも人生は生きるに値する。

私がこの世で一番怖いもの。

それは死と性だ。

原因はわからないが出来れば意識を持って死にたくないし、自分の子どももいらない。

自分は肉体は女だが気持ちは正直流動的だ。

男にもなりたいし女でいいとも思う。

男が好きだし女も好きだし

誰も好きじゃない。

誰にも触れたくない時もある。

私は答えを知りたくて怒りをぶつけたくて生きてるわけじゃない。

作品を作るわけじゃない。

ふと、お金と時間をかけたからには楽しんでほしい。ワクワクして欲しい。大丈夫だと思って欲しい。

私は言葉を使うのは下手だが口をつぐまない。

伝える手段の一つに言葉が必要だ。

音楽も、画も必要だ。

不器用でも私は話す。

あなたは大丈夫。

苦しくてつらくて死にたくても

時に全てを忘れて笑える。

あの時助けていただいた者です。


約4年前くらいだったと思う。

新宿3丁目副都心線。

横浜方面終電まで、あと5〜6本。

発作だ。

暑さと不安。水を2本、ポカリスエットを1本、頓服薬、携帯電話。

命綱はある。

しかし、乗れない。

いかんせん終電間際なので人が沢山いるし、大体がテンションの高い団体や酔っ払い。

わたしはそれが怖い。

でも、帰れなくなってしまったら困る。

必ず乗らなければならない。

だいたいこうなる。

乗ろうとしては乗れない。発射音が鳴れば降りてしまう。

密室になるのが怖い。

勿論、急行になんか乗れない。

私は周りを見渡した。

酔っ払いのサラリーマンとか、楽しそうなサークル集団。疲れて項垂れている人はダメだ。

話を聞いてくれそうな、忙しくなさそうな人、、、。

20代半ばくらいの女性がいる。携帯をいじっているが、今や携帯をいじって無い人はいないし。

何よりひとりだ。 

焦ってもなさそうだ。

思い切って声をかけた。

これはほぼ私の当時喋ったままである。

「あの、、、突然すみません。怪しいものではなくて、あの実は私パニック障害って病気で、あの、すみません少し話聞いてもらっていいですか?」

彼女は落ち着いていた。

「はい。」

あ、これは冷たい系か?と少し怯んだが話を進めてみる。

「あの、私はパニック障害と言って、、不安で動悸がしたり、過呼吸になったり、精神的なアレで、頭がカーっとなったり、死ぬと思ったり、気を失うとか、、、

息も絶え絶え訳もわからない話をずっとお姉さんは静かに、たまに相槌をうって聞いていた。

「とにかくあの、帰らなきゃなくて、あの、密室、、、電車がこわくて、吐いたり倒れたりしないので、、、なんもしないので、、、あのお姉さんが降りるとこまででいいので、やだったらいいんです。全然言ってください。

あの、、、一緒に電車に乗ってくれませんか。」

するとケロっとした声で「全然いいですよ。」と答えた。

そして私とお姉さんは次の各駅停車に乗った。

大きい声が苦手な私が丁度聞き取れるくらいささやかに

「私、○○駅なんですけど、どこまで行かれるんですか?」

とお姉さんが発した。

「私は○○○までなんですが、○○までいていただけるだけで、、、本当にありがとうございます。すみません。一緒にいただけるだけで安心するんです。」

「よかったです。大丈夫ですよ。」

また駅に止まりだいぶ人が降りた。

「座りませんか?」

いつもなら立っている方が楽なのだが(というか扉前に居たい。)

お姉さんがあまりに落ち着いていて優しく言うので、並んで座った。

「飴どうぞ」

飴をくれた。

私は同じことばかり話していた。

「すみません本当に、いきなりこわいですよね、、、すみません本当に助かりますすみません、、、飲んだりとかもしてないんで、、、」

「大丈夫です。あ、私は飲んじゃってますけど。笑」

私は飴を握り締めながら

息がしやすいように飴をくれたのかも、とぼんやり思った。

まだ発作が厳しかったので吐き気がしたり飲み込んでしまったりするのが怖くて口にはしなかったがそんな気がした。

「すみません、本当に、、、」

「大丈夫ですよ。ってか私何もしてないですが、、、」

「いや、、、本当それだけで助かります。なんでも大丈夫って言っていただけるのが、、、落ち着くんです。パニック、、、カーっとなって、死んじゃうって思うんです。」

「よかった。大丈夫。死なないですよ。友達にもいるんです。」

意外とパニック障害は知られていない。落ち着きも、大丈夫の言葉も飴も本当にこの方のお友達にもパニックの方がいるんだと思った。

そうこうしているうちに彼女の下車駅に近づいた。私は早々に

「本当にすみませんでした。本当に助かりました。」

とたたみかける様に喋り倒した。

夏の発作は長く、まだ苦しかった。

すると彼女は

「私、行きますよ。一緒に。」

と言った。

「いやいやいや終電もありますし本当にご迷惑おかけしてしまって、、、本当に助かったんです大丈夫です。」

「でも全然私帰れますし。一緒に行き私ましょう。」

「いやいや、本当に、本当に大丈夫です。ありがとうございます。お気持ちだけで。本当に感謝してます。」

「そうですか、、、」

ドアが開いた。

彼女は、やっぱりサラッと

「大丈夫ですよ」

と言った。

電車は動き出し、彼女はしばらくこちらを見て帰っていった。

私はずっとお辞儀をして、見えなくなると座り直して水を飲んだ。

何故だか、1分前より落ち着いている。

放心状態のままあと二駅くらいになった。

もう大丈夫。帰れる。

私は飴を口に入れた。

私はこういういい人に出会うとブルーハーツの「いいやつばかりじゃないけど〜わるいやつばかりでもない〜」

とリンダリンダが流れてくる。

普段買わない甘い飴。家まで鼻水垂らしながら泣いて帰った。

ありがとう。あの飴のお姉さん。

覚えてますか?

レイトショーと東京


私は昔から夜に出かけることが苦手だ。

しかし、夜は好きで

夜に行われる行事や

あのワクワクして冷静になった時の

鬱病の様な都会も好きだ。

しかし歳も取り病気も悪化した私は17時以降外出はしなかった。

ここ2〜3年の話になる。

3ヶ月前、元々患っていたパニック障害に加え、治ったはずの脅迫神経症。プラス後々解明する双極状態に陥っていて不安定どころではない状況だった。

家の外でも中でもどこであろうと突然泣いたり叫んだり、思い立てば夜中に徘徊し、警察に世話になり他人に怒鳴られ心配され訳もわからず吸わないタバコを買って身体中に押し付けていた。

(しまいには首を吊ったが生きているし回復してきている。)

そんな錯乱状態の中、私は突然外に繰り出しジャックアンドベティのラスト回の「鵞鳥湖の夜」を見た。

吐瀉物の匂いのする黄金町、体調の悪い血の様な京急線。

マスクをしたキャメルのコート。

ドブの匂いを隠す様な香水の女。

それでもあの3人だけの空間と赤い椅子

グイ ルンメイは泣きたくなるほど美しかったのだ。

これが、18年前私が上京した時の東京だった。

夢も希望も絶望も全てある。

く〜、エモいぜ。

レイトショーをもう一度味わいたい。

アートな話

この間、横浜美術館に行きました。

横浜に住むようになり初めての事でした。

実は私、某美術大学の絵画科出身でして、それはそれは熱心にデッサンして油絵を描いて2年浪人し入学しました。

最初の授業でとある教授が「絵画は既にレディメイドだから。」と言いました。

現代アートって何でしょう?

現代のアート?

とにかく技術主義な受験から解放されたみなさん(私含む)は、やたらデカイキャンバスを壁に立て掛けてよくわからない絵を描いていました。

 

因みに、美大の受験の技巧というのは勿論上手くなる事、なんですが(だから石膏デッサンとか沢山しますよね)

受験時間内にいかに「受かる絵」を描けるかなのです。なので私たちはさまざまな絵画的技巧を学び、雰囲気を出す術を身につけ、顔や手などを書き込み、デッサン力がある事を主張します。

基本的にどの美術大学も油絵科の入試とは3〜6時間のデッサン、約6時間の油絵で学科以外の入試に勝たなければなりません。

少なくとも、当時はそうでした。

大学の傾向に合わせながら時間内に受かる絵を描くこと。

話は戻って皆のトンチキ絵画合戦が始まりました。塩をキャンバスにかけ始めて「人生だ」とか言う人もいました。確かに、人が亡くなっても性の宮殿にも塩がある。

レディメイド。確かにキャンバスは、絵の具は既に存在するのですから、そうなのでしょう。

リキテンシュタインはレディメイドでしょうか。バランスでしょうか。

そうかもしれません。

しかし、皆が揃いも揃って立て掛けたキャンバスにトンチキを描く様子は偶然を使ったええかっこしいにしか見えませんでした。

絵の具は垂れるし跳ねます。

では、床に置いて全く思い通りに描いたら?

いや、そもそも思い通りとは?

完全に頭の中のイメージを絵に出来るのか?

いや、そもそも画用紙にチャチャっと描いたものを作品です、と言い切れば作品でありますし。

物凄い大作の油絵をクロッキーです、下絵です。と言ってしまえば作品ではない。言い切ってしまえば作品なんです。

なんとシンプル。

時を戻そう。

そもそも偶然と意図が対になるなら意識と無意識も対になり、意図と意識は似て非なるが偶然と無意識は全く違うと言い切れなくもなく絵の具というのは、、、

私は頭が爆発し、何を描いても自意識過剰な気がして恥ずかしくなり早々に絵を描く事を辞めてしまいました。

映画が大好きだったので、絵画科ながら映像を毎回講評に出して困らせていたが、映画を作る事はひたすら楽しかったです。

しかし、当たり前に偶然がまるでない作品なんてないのです。頭の中のイメージを100%再現するなんて不可能なのです。映画は、ひとりじゃ出来ません。

きっと絵もそうでしょう。

私は素敵な仲間と作りたい。仲間が発した素敵なものはどんどん取り入れたい。もう最初の狙いも行方もとっちらかるけど、私はそれが好きです。

アートって、映画ってそんな難しいものですか?

皆感じたことが違う、それでいいんです。わからないならわからないと言おう!(ぺこぱ2回目)

横浜美術館のウォーホルのマリリンモンロー。作品の説明文には「スーパースターが好きだから」

ニコッとしちゃいました。

桜木花道がいるから流川楓がかっこいいし道明寺がいるから花沢類がカッコいいんだよなぁ。

私もスタースターが大好きです。

なんじゃこりゃ。

だから、アートを続けてる人を尊敬しています。

では。

健康にいい水の話


私は転勤族として育ちましたがしばしば実家(出身?拠点?)に0〜6、12〜15歳まで住んでおりました。

典型的な男尊女卑家庭で父、母、父方の祖母、父の妹(叔母)、私という家庭で

1番は死んだ祖父(父方)2番は父、3番に祖母、4番に叔母、5番に私、6番が母でした。

お金、学歴、世間体の見事なトリプルクラウンです。

しかも、宗教に入っています。(私は無宗教)

毎日勤行が行われました。南妙法蓮華経、、、

中学から学校に行けなくなった私は祖母や宗教の知らん坊さんにバカにされ泣きながら夜な夜な勤行のなんか長い変な文を暗記して練習してました。  

健気ですね。

でも、母へのいじめに比べたら私の学校のいじめも家の不穏も耐えられるものでした。

短大が論外なら、小卒の可能性があった私なんてゴミだったでしょうね。

そんな引きこもり期に父が癌で倒れるんですが、私は大好きな母方の祖父母と生活出来て幸せでした。

母は大変そうだったけしいつの間にか叔母もいなくなってたけど(そりゃあ母親に結婚結婚言われりゃやんなるよね)

ともかく私は母方のじいちゃんが大好きです。船乗りだったんですよ〜。オシャレで。

そんな事も一生続かず父の手術の日が来ました。なんと私の誕生日でした。

祖母が「あなたがお父さんを守ってくれるからきっと大丈夫よ」

ゾッとしました。

私はその日から自分の誕生日が嫌いです。

そんなこんなで手術は成功したわけですが何故か分からず見せられた真っ黒な肝臓よりゾッとしたのは大量の水でした。

健康の水だそうです。

祖母は何故か自分のおしっこまで飲んでいました。

私にも強要しましたが断固として飲みませんでした。

あれから何十年。

母に、おしっこ飲んだ?

と聞きました。

飲んだそうです。 

しょっぱいね!

精神障害者手帳を持った話

東京に出てきた18の頃、夢も希望も絶望も詰まったネオンのビル街に

「エモいな~。」って笑顔になってたんですよ。

当時はエモいなんて言葉なかったかもしれないですが、、、。

念願の大学に入学して中央線で服を買ったり、夜の新宿でわちゃちゃしてると

病気のことを忘れて笑う時もありました。

しかしひとつ作品を作り終え私の体は耐えていた虫歯のようにボロボロ落ちていきました。

臭いんです。起き上がれないんです。体がだるくて、どうしようもない。

当然、働けませんでした。何もできないまま2年ほど死んだように暮らしていました。

変わらず、通院はしていました。

パニック障害を患ったのは20歳でしたから、慣れたものでしたが

すべてを忘れて笑う時間は無くなりました。

そして秋、夜に突然徘徊する日々が続きました。

外で叫び泣いたり、わざわざ吸わないタバコを購入して体のいたる所に擦りつけました。

当然痛かったです。水ぶくれになり跡も残るでしょう。

約7年前の減薬時とはちがう絶望がやってきました。

私はとうとう首をつりました。幸い、家にいた母がぶつかる足音で飛んできて一命を取り留めました。

死にたい死にたい死にたい死にたい

カミュが解けなかった哲学が一つだけあるそうです。

自殺です。人生は生きるに値するものなのか。

永遠の謎だと。

私は、ただ生きるだけで辛いこの人生は生きるに値すると思います。

生まれてしまったからには、死ぬこと以上に怖いことはないからです。

死ねない。

そう思った瞬間、私は病院で一連の心理、行動を正直に話し新薬を手に入れ

この金銭状況で生きていくために自立支援の医療受給者証を申請し障害者手帳まで手に入れ

医療費を削り、余計なものを一通りメルカリでお金に変え、ヘルプマークをつけて歩いています。

そんなことをしている間に世の中はコロナ騒ぎになり、最大限気をつけながら10年以上ぶりの歯医者にも通い

マイナンバーカードも申請しました。

そろそろバイトでもしようと思っています。

そしてこれを書きながら手帳を見て、少し泣きました。

私は、パニック障害を発症して15年。治ると信じた5年。付き合っていこうと決めた5年。

限界中の限界の5年。精神障害者になりました。

この闇から

内田さん、あやさんの新作「女たち」

奥天さんの、アトリエ、個展。

よく見るようになったぜ細川くん。

野口くんCDおめでとう!

みんなに恩返し、できてないよ。

カナダへ永久移住

そう、私 日本を出たい。

競争心も情熱も

無くなった今、リスクは大きいがカナダのバンクーバーに住みたい。


難関はありすぎるほどある。

取得しなければならないこと。英語。日本人が働くということ。

悪いところもたくさんあると思う。


しかしあのゆるさが今欲しい。

物価も安いし

日本食は高いけど別に食に興味ないし。

治安も悪くない



そうだ、カナダへ行こう。